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ツチヤタカユキという生き方 ~プロとアーティスト

目撃!にっぽん「もう一度笑かしたい~“伝説のハガキ職人”再起の日々~」

www2.nhk.or.jp

 

NHKの番組を見た。

普段はTVをあまり見ないのだが、オープニングから目を引くものがあり、つい最後まで見てしまった。

思うことがあったので、ここに記しておく。

 

*****

 

ツチヤ氏が書いた落語の台本に対し、林家木りん氏が意見をする。

それに対し、感情的になったツチヤ氏は激しく反発する。

「否定するならば、代案を出すのがプロではないか」と。

そして、言い合いの末、ツチヤ氏の書いた新作落語を木りん氏が演じるという企画は中止となった。(※正確には延期となり、後日別の落語家が演じることになる)

 

果たして彼はプロなのだろうか。

 

その後、知人2人に相談を持ち掛けるツチヤ氏。

ひとりは言う。落語の世界に入るのであればそのルールに従うべきではないか。

そしてもうひとりは、たとえば売れる曲を作ることを拒否した売れないミュージシャンがたくさんいる、ツチヤ氏にはそうなってほしくない、と言う。

 

私は思う。

彼は自らの内面に向き合って「笑い」をアウトプットするアーティストなのだと。

そしてこのベクトルは、とある道をアーティストとして極めようと試みた者にしかわからない、非常に繊細なものだ。(そして多くの人間が挫折していった)

 

プロとアーティストは大きく違う。

 

プロはプロフェッショナル(Professional)であり、職業的に専門性のあることを言う。マネタイズがひとつの目的である。事実、プロフェッション(Profession)は賃金の支払われる職業のことを指す。

 

アーティストは芸術家であり、専門家の一種と捉えることもできるが、実際は違う。

自己の内面に深く向き合い続け、さまざまな表現方法を駆使しながら複雑かつ混沌とした内面を表に剥き出す作業は、プロフェッショナルのそれとはまったく違うのだ。

そして、アーティストの本質にマネタイズはないことが決定的な違いである。

 

 

 

もう一度問う、彼はプロなのだろうか。

 

私は違うと思う。

(私と同じ)ド内向型人間の彼から滲み出てくるものはアーティストのそれでしかない。

作品の否定は自己の否定であり、許されざる行為なのだと理解できる。

 

 

産み出されたものの価値のはかり方は多様だが、単純に類型すれば次のようになる。

 

1.自分で生み出したものを、自分ではかる。

2.自分で生み出したものを、他人がはかる。

3.他人が生み出したものを、自分がはかる。

4.他人が生み出したものを、別の他人がはかる。

 

4は外部での出来事として除くと、プロの仕事は2,3に該当する。

単純な相互評価である。

 

では、アーティストは「1」に該当するかというと、少し違う。

正しくは「自分で生み出したものを、自分ではかり(ブラッシュアップし)、他人が共感するのを待つ」だ。

重要なのは、「他人に合わせて修正する」というプロセスを組み込むことが出来ないという点にある。

自らの血肉を削り取り、やっと剥き出しにしたものを、なぜ他人に合わせなければいけないのか。納得できるわけがないし、理解できるわけがない。

 

知人との話に戻そう。

 

落語の世界に入るのであれば、そのルールに従うべきというのは、しごく当然の話だ。

ここでの話は、他人の懐に飛び込む「選択」をしたということになる。

つまり、「落語」というプロフェッショナルの世界に自ら飛び込み、「マネタイズ」というプロフェッショナルの仕事をするのであればルールに従うべき、ということだ。

これは彼自身が行った選択であり、ある種の「覚悟」を伴うものである。

 

もうひとつ、売れる曲を作ることを拒否した売れないミュージシャンについて。

そもそも「売れる曲」が作れるのであれば、誰も苦労はしないのだが、ここには重要な視点が含まれている。

それは、「売れる曲=共感者が多い」ということだ。つまり、他人に合わせるというプロセスが明示的にることになる。

 

整理する。

プロのミュージシャンは、より多くの共感者を得るために曲を作るため、共感者に歩み寄るプロセスが入る。

アーティストとしての音楽家は、内面を表出化した曲を作る。そこには、共感者に関するプロセスはない。そして、「売れる/売れない」は結果的に共感者が多いか、少ないかに過ぎない。

 

ツチヤ氏は、これからも「もがき」続けることになるだろう。

私は、彼の「人間関係不得意」は決して短所だとは思わない。内面に向き合うことのできる才能であり、センスであると思う。

しかしプロを目指すのならば、より大きな痛みを伴うことになるだろう。「落語」という選択は、この痛みの一葉にすぎない。

 

生きるということは、そう簡単ではないのだ。

 

辛いだろう、しかし負けずに貫いてほしいと思う。